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タイとカンボジア、「プレアビヒア遺跡」めぐる紛争の歴史
2011/05/02

世界遺産のプレアビヒア遺跡。素晴らしい遺跡です。(2008年1月筆者撮影)

2月4日、世界遺産の「プレアビヒア遺跡」付近でカンボジア領に侵入したタイ軍とカンボジア軍との間で銃撃戦となりました。さらに4月22日からは、プレアビヒアから150キロほど離れた地点で戦闘となっています。2月5日にカンボジアは、国連安全保障理事会に本件に関する書簡を送り、14日には国連安全保障理事会が開催されました。現在、ASEAN(東南アジア諸国連合)議長国のインドネシアによる調停が進められており、4月7日−8日にはインドネシア・ボゴールで二国間の対話が開催されましたが、タイ側はこの会議にも出席せず全ての調停を拒絶しており、解決のめどは立っていません。

プレアビヒア遺跡については、1962年に国際司法裁判所の判決でカンボジア領であることが確認されています。歴史をさかのぼると古いのですが、この問題を明らかにするためにも過去の歴史について述べたいと思います。

1800年代中ごろ、現在のシェムリアップやバッタンバンは、シャム(現在のタイ)の支配下にありましたが、1884年にカンボジアを植民地としたフランスは、次第に失地を回復し、1904年、1907年と立て続けにシャムと協定を結び、現在のカンボジア・タイ国境線まで領土を拡大しました。問題のプレアビヒア遺跡については、1904年の協定で、国境合同委員会で国境を決定することとし、委員会(実際にはフランス)が地図を作製し、国境線を確定しました(当然ですが遺跡はフランス領)。その後、第二次大戦の初期にフランスがドイツに降伏するや、1940年にタイはフランス領に侵攻(シャム・仏印紛争)し、再びバッタンバンやプレアビヒアなどを奪い取りました。しかし、第二次大戦終結によって、国境線は再び、戦争前の状態に戻されています。カンボジアはこのままの国境を引き継いで1953年にフランスから独立しました。

その後の冷戦下でタイはプレアビヒア遺跡付近に軍を駐留させたため、カンボジア側は国際司法裁判所に提訴し、同裁判所は1962年6月にカンボジア勝訴の判決を下しました。この時の判事のお一人が日本から派遣された田中耕太郎氏(後に文化勲章受章)です。この判決の際、同裁判所は、遺跡近辺の国境線は、1904年合同委員会による地図上の線であると判決し、それに基づいて遺跡をカンボジア領にあるものと判決しました。

その後は遺跡近辺も平和となり、カンボジア・タイの両側から観光客が訪問していました。私も2008年に訪問しましたが、素晴らしい遺跡でした。そして、2008年7月には、当時のタイ政府(サマック政権)も同意のうえで、カンボジアの世界遺産としてユネスコに承認されました。

しかし、タイの政治は混乱し、2008年秋の空港占拠を経て反タクシン系のアピシット政権となります。反タクシン系勢力は、親タクシン派攻撃の理由の一つとして、プレアビヒア遺跡に関する「譲歩」を取り上げました。その政治的プレッシャーの中、タイ軍は2008年10月3日武力をもって遺跡近辺に侵攻し、紛争を起こしました。その後、2009年4月、2010年1月、4月と散発的に銃撃戦などもありました。2010年12月にタイの国会議員他が、違法な越境を行いカンボジア側に逮捕される事件も起きています。

2月4日は、タイのガシット外務大臣がカンボジアのホーナムホン外務大臣をプノンペンに訪問している当日の軍事侵攻でした。これは、PAD(黄色シャツ組)からの弱腰批判の中で、不満を持つ一部のタイ軍部が外交交渉を妨害することを目的に行ったものと推測されています。タイ政府が本当に現地軍に対するシビリアンコントロールを維持しているのかについては以前から疑問の声も出ています。また、タイ側の攻撃でプレアビヒア遺跡が損傷しています。ユネスコは損傷を調査するため現地に調査団を派遣したいとしていますが、タイ側が同意せず実現していません。

また、タイはこの侵攻の際に、国際禁止条約が発効したばかりの「クラスター弾」を使用したことが明らかとなり、この点についても厳しい国際世論に直面しています。

タイ政府に対しては、国際司法裁判所判決の遵守、ユネスコ決定の尊重、武力の不行使、非人道的兵器の使用禁止を強く求めたいと思います。

(鈴木 博)

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